2026/05/05

長谷川 町子さんの「サザエさん」

 

母が集めていた「サザエさん」の文庫本。

たぶん全巻揃っていて、おまけに「いじわるばあさん」もあります。


私も大好きで、実家にいる時によく読んでいました。

「サザエさん」のマンガは戦後の日本の世相を

活き活きと描いていて、ある意味戦後史でもあると思ってる。


というわけで、実家から引き取ってきました。

孫たちもおもしろく読んでくれるかなと思ったし。

でも孫たちは全然読んでくれませんでした。

うーん、今の子どもには刺さらないか。


テレビアニメの「サザエさん」は、実は私は大嫌いです。

特にカツオが嫌い。

ただずるくて、小賢しいだけの子になっちゃって可愛げがない。


漫画本の「サザエさん」とテレビアニメの「サザエさん」は全く別ものです。

2026/05/04

GW何する?-スマホの機種変

世の中はゴールデンウィークですね。

仕事もしていない、学校に通う子どももいない私にとっては

連休など関係ないのだけど、でも私もGW気分。


といっても、連休中はどこにも出かけません。

どこに行っても混雑してるし。

4月29日の「昭和の日」にちょっとお出掛けしたので、

行楽というものはそれで終わりです。


あと何をするかっていうと、スマホの乗り換え(機種変)。

私のスマホ、機種代を分割払いにしていて、

毎月2円しか払っていません。


もうすぐ購入してから2年がたちますが、

2年間で48円しか払わない計算になります。

(正確に言うと最初の月だけ3円だったから合計49円)


でも2年たってスマホを返却すれば、残債は払わなくていいのです!

私は初めてこんな購入の仕方をやってみました。

最新機種をたった49円で?


でも2年後に無傷の状態のスマホをお返ししないといけない。

その期限がもうすぐやってきます。

それまでにスマホの中を空っぽにして初期化しないといけない。


私のスマホはSDカードが使えないタイプで、

データは全て本体に保存されています。

もちろんバックデータをクラウドに預けたりはしているけど、

完璧ではない気がしているので、

スマホ内のデータ(主に写真ですが)をこれから確認します。


あ、2年たってもスマホを返さず使い続けることも可能。

残債を払い続ければいいわけです。

でも私は返却することにしました。


どこにも出かけない今こそ、機種変のチャンス。

がんばります。

2026/05/03

両親が遺したもの

両親亡き後に残った実家は異常にモノが多いです。

みんな「そう、そう」「よくある話だよね」と言うけど、

うちの場合はほんとに、ほんとに異常なんです!


いわゆる「ゴミ屋敷」なら、まだいい。

ゴミは何も考えずに捨てればいいから。


うちの場合はゴミも多いけど、そうじゃないものもあふれている。

父が残したいろんな資料や名簿は個人情報も含まれているから、

うかつに捨てられない。

母が残した、あらゆるハンドメイドの材料・道具は

同じくハンドメイドが好きな私や妹にとっては

その価値がわかるだけに捨てるのがしのびない。


実家に住んでいるのだったら、

少しずつ処分するとか、ネットフリマで売るとかするのだけど

実家は遠いし、それらを自分の家に引き取るには量が膨大すぎる。


結局は捨てるしかない、業者に処分を依頼するしかない。

私と弟はもう割り切ったけど、妹はまだ思いきれないみたいです。


2026/05/01

お墓の問題-墓じまい?

実家のある市に、亡き父が購入したお墓があります。

そこの管理をしている霊園の事務所から

お墓の継承(名義変更)をするようにと連絡がありました。


お墓の担当は弟なんだけど、

「いっそ墓じまいをしようか?」と相談がありました。

(両親のお墓は同じ霊園にある永大供養塔へ)


というのも両親亡きあと、実家も売ってしまったら

もうその市に行くことはなくなるだろうから。

親は転勤族で、私たち兄弟はそれぞれ別の土地で育ったので

今の実家があるところになじみはないのです。


母も生前「墓じまい」をしたいと話していました。

それにしても、なんで父は後のことも考えずにお墓を買ったのだろう?


父のもともとの生地にある先祖代々のお墓は、

めっちゃ田舎の辺鄙なところにあり、

墓参りに行くのが不便なので別に新しくお墓を買い

そこに私の祖父母のお骨が納めてあります。

しかし、それこそ私たちにとっては、

そのめっちゃ辺鄙な場所も、今の実家のあるところも

同じくらい、もう縁のない場所です。

お墓の掃除や草取りのためだけに、飛行機で出かけていくのは

ちょっと考えられないんですよね。


うちの両親の計画性の無さとか、将来を見通す力の無さには

ほんとに毎度毎度、呆れさせられる。


2026/04/29

さて、これから

前回のblogで、私の「失われた2年半」の記録は終わりです。

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。


父の死からもうすぐ4カ月がたとうとしていますが、

いまだにいろんなことが片付いていません。


空き家となった実家は、もう誰も住むこともないので

いずれ売却するつもりです。

そのため、まずは家・土地の名義変更(相続)を

しなければならない。


遺産、というほどのものではないけど、

わずかながら銀行に預金もあるので、

いずれそれも兄弟で分けることになります。


諸々の手続きも結局、ほぼ私がやっています。

他の兄弟は働いていて、昼間に役所に行ったりできないから。

それだけでなく、たぶん面倒な手続きなどが苦手なのでしょう。

できない人たちに無理にやらせようとしても仕方ない。


とっとと全部終わらせて、すっきりしたいので

私が一人でやっています。

もちろん兄弟たちも私に任せると言ってるし、

頼めば協力もしてくれます。


面倒な手続きやお金の管理を私がやる代わりに

初盆やお墓の手配は弟と妹に丸投げしました。

そういう分担にしたので、お互い文句はないのです。


聞けば「相続」が決着するのに10年かかったとか、よくある話らしい。

うちは、みんなあんまり欲張らない人ばかりで

たぶん円満に解決しそうでよかった(今のところは)。

たいした遺産もなく、欲張ったところでタカが知れてるしね。


まだ気掛かりなことは続いているし、あいかわらず実家のことで

あれこれ時間を取られてはいるものの

これからは自分の生活を最優先にして、

残りの人生を悔いのないよう、楽しみながら生きていこうと思います。

2026/04/28

その後の話-回想-

たった1カ月前に母の葬儀があったばかりなのに、

またまた、今度は父の葬儀。


父の死を知らせた人たちは皆、「ええっ?」と驚く人はおらず

「あー」と言外に「予想はしていたが・・・」といわんばかりの反応でした。

やっぱり妻を亡くした夫は、わりとすぐに後を追うものらしい。

皆、そういう認識だったのでしょう。


そういえば、老人ホームから父の遺体を送り出す時、

ホームのスタッフさんが父にとっての記念の品(何とは書きませんが)を

一緒に持たせてくれて、ほんとにほんとにありがたかった。

緊急の事態であったのに、よくぞそこに気がついてくれたと。

父の生涯を象徴するようなもので、その品は棺に入れてあげました。


葬儀のあと私はいったん自宅に戻ったけれど、

すぐにまた実家に行き、父がいた老人ホームから荷物を引き上げたり

役所に行っていろいろ手続きをしたりしました。

電話ですむ手続きはなるべく電話で済ませたいのだけど、

これがまた、なかなかオペレーターにつながらず苦労しました。


そこから3カ月あまりたつ現在も、まだ全てが終わったわけではなく

中には面倒くさい手続きだの申請だのもあり、

頭を悩ませながら、1つ1つ片付けている毎日です。

2026/04/27

父の死-回想-

父はまた介護タクシーを使って、母の葬儀に参列しました。

葬儀後、老人ホームに帰ってからも、泣いてばかりいたそうです。


風邪の症状もあり、咳や痰が出てむせることがあるので誤嚥の心配があり

食事を制限して点滴で水分や栄養を補給してもらいました。

母の死から1カ月後、父も老衰で亡くなりました。


老人ホームに入ってからちょうど1年後のことでした。

その間にどんどん食が細くなり、眼も見えにくくなり

もちろん身体の自由もきかなくなっていきました。


心身ともに弱って、できないことばかり増えて苛立っていて、

仕方がないとはいえ、かわいそうでした。

いっそ認知症になって何もわからなくなった方が楽なのでは、

と思ったくらい。


母が亡くなってからは気落ちが激しく、間をあけずに母のところに行けて

よかったのでは、というのが正直な気持ちです。


叔母が「あの世で姉さんが義兄さんに『もう来たの?』と言ってるかもね」

と言ったのが、なんかおかしかったな。

でも、たぶんそうだろうと私も思いました。

2026/04/26

母の死-回想-

ここからは、あっさりと淡々と書いていきます。

(この回想記事ももうすぐ終わります。)


総合病院に緊急入院してから約2ヵ月半後、

転院先に移ってから1カ月後に母は亡くなりました。

転院先のE医院に1カ月もいたのか。

なんだかあっという間だったような気がしますが。


葬儀屋さん(というか、冠婚葬祭全てのセレモニーや

返礼品、挨拶状の手配などあらゆるサービスを用意してある)

の互助会に入ったばかりで、一度も会費を払う間もなく

さっそく割引価格で通夜・告別式をやってもらいました。


父は名ばかりの喪主で、弟も葬儀に間に合わず

私が喪主代行を務めました。


母が亡くなるまで、私はほんとにほんとに頑張った(と思う)。

悲しいとか寂しいとかいう感情よりもやりきった感が強かったです。


叔母たちと通夜や火葬場で穏やかに思い出話ができて、

むしろ楽しかった。

「ああ、いい話が聞けたなぁ。ママにも教えてあげなくちゃ。」

と思って、そこで「あ、ママはもういないんだった」と気がつく。

その繰り返しではありました。

2026/04/23

去年の11月、私はほとんど自宅にはいませんでした-回想-

10日間実家にいて、母の転院などを済ませて自宅へ。

その一週間後にはまた実家へ。


葬儀屋さんのセミナーに参加して、互助会に入会しました。

老人ホームにいる父を介護タクシーで母のいる病院へ連れていきました。

二人が会うのは、これが最後となりました。


母の妹たちや近所の仲のよい人たちが、

それぞれ病院まで母に会いに来てくれました。


母と一番仲のよかった叔母には、

看護師さんが「面会の時間制限は特別に無しにします」と

言ってくれたらしい。叔母は隣県から何度も来てくれました。


私は母の病院に通いながら、

実家のケーブルテレビの解約などなど

いずれ空き家になってしまうであろう実家のあれこれの手配を

続けていました。


ご近所にはごくごく限られた、母が信頼している方にだけ

母の入院先と病名を知らせていましたが

お隣の奥さんをはじめ町内会の方に親切にしていただいて

ありがたかったです。


また父がいる老人ホームのケアマネさんは

「お父様のことはこちらに任せて、今はお母様の方に専念してください。

そうでないと娘さん(=私)が倒れてしまいますよ」

と言ってくれました。


孤軍奮闘していたようで、実際はそうではなかったのかな

と今になって思います。

でもその当時はとっても孤独な戦いのように感じていました。

私の兄弟たちにメールやLINEで状況を逐一報告していたけど、

それに対する反応の薄さ(というか反応無しだったり)が

すごく辛かった。


もしかしたら、彼らは母の最期に近いことを

受け止めたくなかったのかもしれないけど。

2026/04/22

母が転院先の病院に入院してからの日々-回想-

母がD総合病院から実家近くのE医院に転院したのは11月の初め頃。

入院手続きからはじまり、諸々のシステムが大きな総合病院とは異なり

戸惑うことも多かったけど、看護師さん達が適切に対応してくれました。

私が滞在している実家から近くなったし、

面会の予約が不要(総合病院は前日までに要予約)なのも助かりました。


病院からいろいろ持ってきてほしいものを毎日のように連絡してきて、

また母もLINEであれこれ言ってきていたので、

私はほぼ毎日、病院に通いました。


また老人ホームにいる父に会いに行き、母の病状を伝えました。

E医院の先生から「葬儀屋は決めてあるの?」と聞かれたので、

それも父に聞きました。

父は認知症もなく頭だけはしっかりしていたので、

まず父の意見を聞いておいた方がよかろう、との判断で。


父には母の入院のことを「検査入院」と伝えていたので、

「癌でした」と聞きショックではあったと思います。

でもその時は突然すぎて、いまいちのみ込めていない感じでした。


一方の母は「自分はこのまま家に帰らず施設に行く」と思って

それなりの覚悟を決め、生協の配達とか新聞の配達などを

解約してほしいと言いました。


私ももう母が家に帰ることはないと決まったも同然なので、

今まで母の抵抗が強くてできなかった、実家片付けに着手。

まず台所にあふれる鍋、フライパン、ざるやボウルを処分しました。


そして、老人会を通じて付き合いのあった葬儀屋を

父から教えてもらったので、そこにも話を聞きにいきました。

ちょうど合同セミナーのような催しがあるというので、

とりあえず参加の予約をしました。

身近な人の葬儀というものの経験がなく(参列したことはあっても)

何もわからない状況だったので、藁にもすがる気持ちで

セミナーに出てみることにしたのです。


そんなあれこれの手配をして、いったん自宅に戻りました。

2026/04/21

マイナ保険証の認証方法

ちょっと脱線しますが。

転院先での母の入院手続きの際に気がついたことが1つ。


今は健康保険証が廃止されて、マイナ保険証になりましたね。

母もマイナンバーカードを持っていました。

受付のカード読み取り機にマイナンバーカードを入れた時、

認証方法について「暗証番号か、顔認証か」との表示が出ます。


母に「番号は?」と聞いたら、

「いつも顔認証だから暗証番号は覚えていない」と言いました。

じゃ、顔認証で、と思ったけど、

母は車椅子に座っていて、受付カウンターに置いてある読み取り機に届かない。


車椅子から立ち上がるのも難しく、

また受付のスタッフさんもそこまで要求をせず

カード読み取り機を母の顔の位置まで持ってこようとしてくれました。

読み取り機の電源コードをギリギリまで引っ張り、

なんとか顔認証できたのだけど、なんか一騒動になってしまいました。


これがストレッチャーに寝たままだったりしたら、顔認証は無理でしょうね。

顔認証は番号を覚えてなくてもいいから便利なようで、これは盲点でした。


以来、私は自分が病院にかかる時、

マイナンバーカードの認証は顔ではなく暗証番号でするようにしています。

常日頃から番号を入力するようにしておけば、とっさの時に「忘れた!」

ということにならないだろう、と思って。


本人が意識すら失ってしまっていたら、暗証番号も何もわからないわけだけど。

(まあその時はどうにかして顔で認証してもらう、笑)


年をとると何でもかんでも忘れてしまいます。

病院の受付で毎度、暗証番号を押す。せめてもの「物忘れ防止対策」です。

2026/04/20

母の転院先決まる&余命宣告-回想-

そうこうするうちに、やっと母の転院先が決まりました。

実家から歩いていける近さの病院だったので助かりました。


母がD総合病院に入院した直後に弟夫婦が見舞いに行った時は

母はスタスタと自分で歩いて面会室まで来たそうです。

でもその10日後くらいに私が行った時は車椅子を使っていました。


D総合病院から転院先の病院(E医院とします)までは

当初タクシーで移動するつもりでいましたが、

転院の前日から酸素投与が始まったので、

専用の機材がある、病院の公用車で送ってもらえることになりました。

要するに救急車仕様の車でした。


転院先でさっそく医師から私に話があり、余命宣告を受けました。

D総合病院の先生に余命を聞いた時は「年単位ではない」と言われ、

それをE医院の先生に話したところ、

「月単位でもないです」とはっきり言われました。


さらに「お母さんはもう退院はできないでしょう。

うちで最期までしっかりみますから、施設は探さなくていいです」

とも言われました。

辛い宣告だったけど、率直に話してくれた先生に今も感謝しています。

これで私の覚悟も決まったので。

2026/04/19

母の入院から先は怒涛の日々-回想-

今にして思えば、母の入院から一気に坂を転がるように

事態は悪化していったのだけど、その当時は先が見えない中で

病院の先生や看護師さんに言われたこと、

父がいる老人ホームから言われたことを

ただひたすらこなしていくので精一杯な日々でした。


弟夫婦が実家から自宅に戻った後を引き継いで私が実家に戻りました。

母が入院しているD総合病院と父がいる老人ホームは

全然違う方向に離れていて、

「今日はあっち、明日はこっち」と動き回っていました。


母の治療方針は積極的な延命治療は行わず緩和処置のみとする、

と決まったので、総合病院にいつまでもいるわけにはいかず

転院先を探してもらっていました。

いつになったら転院先がみつかるのかも全くわからない中、

私は実家で待機する毎日でした。


地域包括センターの母を担当してくれていたケアマネさんに

義妹(弟嫁)が事情を話してくれていました。

ふと思いついて、私も挨拶だけしておこうと包括センターに行ったら、

ちょうどケアマネさんが内勤で、会って直接お話しができました。


D総合病院の先生からは

「転院先で病状が落ち着いたとしても、もう家で一人暮らしは無理だろうから、

 退院後はそのまま施設に入るのがいい」と言われていました。

なので、母が入れそうな施設を探してもらうのと、

母の介護認定の申請は義妹から既にお願いしてありました。

(母はまだ何も認定を受けていませんでした。)


ケアマネさんは、とにかく緊急で介護認定がおりるよう手配をする

と約束してくれて、実際にすぐに動いてくれました。

近くに誰も相談する人もいない状況で、

地域包括センター、ケアマネさんの存在はほんとに心強かったです。

2026/04/18

母、三度目の入院ー回想ー

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 ※実家の近くの両親のかかりつけ医:A内科

 ※母が最初に入院した中規模の病院:B病院

 ※父が心臓の手術を受けた総合病院:C総合病院

 ※母が心筋梗塞で入院した総合病院:D総合病院

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私の「失われた2年半」における「三度目の」入院です。

ここからは昨年(2025年)の10月以降のblogと内容が重なる部分もあります。


夏頃から食欲が落ちてきた母は、デイサービスに行く以外は家で

ゴロゴロしてたり、変な時間に昼寝(夕寝?)をしたりしていました。

「少しでも具合が悪いならすぐ病院に行くように」と何度も言いましたが

母は「A内科で診てもらっているから大丈夫」と言っていました。


10月の診察時に激やせした母を見た先生が驚いて

「詳しく検査してみましょう」となり、その結果

「紹介状を持ってD総合病院に行ってください」と言われました。


それだけを母から聞いて、私は「これは即入院だ」と直感。

母には入院時の持ち物リストをすぐに送って、

「これを自分で用意して必ず持っていくように」と言いました。


案の定、母は入院となりました。

たまたま帰省を予定していた弟夫婦がD総合病院に行って、

主治医の先生から詳しい病状説明を母と一緒に聞いてきました。


母は癌で、複数転移、ステージ4との診断でした。

2026/04/17

徐々に徐々に弱っていく両親-回想-

前のblogで父のクレジットカードの解約が大変だったと書きましたが、

それ以外にも、例えば株式投資とか、いろいろ父がやめたがらない事があり

それをなんとか諦めさせるのに苦労しました。

(株は説得に説得を重ねて、ついに全部売却しました。

 今となっては、あの時に売っておいてよかった。

 父の死後、株を残されても株に何の興味もない私たちは困ったと思うので。)


パソコンもだんだん使えなくなり、「前にできていた事ができなくなった」

「やり方を忘れた」などと言うようになったので、情報管理の面が心配で

Wi-Fiを切りました。(ネットにつながらなくした)


その代わり、父が好きだった数独やクロスワードパズルが載った本を送ったり

オフラインでも使える麻雀などが入ったゲームソフトをパソコンに

インストールしてあげたりしましたが、あんまり使わなかったみたいです。

楽しみはテレビで野球や相撲を観るくらいしかなくなっていました。


一方の母は、足腰が弱った父を見ていて危機感を感じていて、

カーブスに長年通っていましたが、そのカーブスがちょっと遠くて

毎回バスで通うのが身体的にも時間的にもきつくなったそう。

それで自分で地域包括センターに相談して、

介護認定がなくても通えるデイサービスを紹介してもらいました。


そこで軽い運動もできるし、人との交流もあり、

なにより送迎付きで助かる、と喜んで通うようになったので、

私も「よかったなぁ」と思っていたのですが・・・


母も年齢が90才近くなり、だんだんと歩くのが辛くなってきていました。

そして夏頃から食欲が落ちてきて、ほとんど何も食べられなくなりました。

母は「夏バテかな」とか父が施設に入ってホッとして「今頃疲れが出てきた」

とか言っていましたが、それだけではなかったのでした。

2026/04/16

面倒な手続き-回想-

平穏な日々とはいっても、何もなかったわけでもなく。

父の病院通い(定期健診)には家族が付き添わないといけないので、

あいかわらず実家へは帰っていました。

父は大きな手術を何回もしていたので、それぞれの定期健診を

年1回受けるため、そのつど介護タクシーを予約して行きました。


そのついでに、母のスマホの機種変更に付き添って行ったり、

実家の片付け、庭の手入れなどなど。

( その頃に書いたblog )


しかし一番面倒だったのはクレジットカードの解約です。

施設に入った父はもうクレカを使う機会もないだろうから

解約しましょう、となったのだけど、これがもう面倒で面倒で。


とにかく父のクレカの枚数がすごかった。

ショップの会員カードにクレジット機能がついてたりもして、

本人も全容を把握してない。


そして解約方法がめんどい。

電話すると「ご本人ですか?」と聞かれ、本人を電話口に出すけど

耳が遠くて電話の向こうの相手と会話できない。

しかも「本人を電話口に出す」というのは、父のいるホームでしかできないです。

電話をしても「ただいま混みあっています」の音声だけが流れて全然つながらない!

限られた面会時間の中で、むなしく時が過ぎていく・・・


今どきはサイトで解約というのもできたりするのだけど、

それも二段階認証という壁があり、父のスマホに認証番号が送られてくるので

やっぱり父のいるホームでしか手続きができないわけです。


クレカの数も多かったので、ホームに私が行った時、弟が行った時と

手分けしてやったけど、それでも全部終わらず、

かなりの日数かかりました。


クレカに限らず「解約」という手続き、本人確認だの二段階認証だのと

セキュリティに阻まれいっこうに進みませんでした。


これに懲りたので、私自身はやたらと会員登録をするのはやめようと

心に固く誓いました。当然、クレカも厳選して枚数を最小限にしています。

あ、サブスクも極力避けています。

サブスクこそ、本人も忘れているのに利用料だけ引き落とされてたりするので

本当に怖いし厄介です。

2026/04/15

老人ホームに移ってからの父と母-回想-

父が老人ホームに移ってからは、しばらく平穏に過ぎました。

母も特に体調を崩したりもなく、元気にしていたようです。

私は旅行に行けたり、春休み中の孫を預かって一緒に遊びに行ったり。


とはいうものの、何かと父から電話がかかってきたり

(父は携帯電話もパソコンもプリンターも自室に持ち込んでいました。)

老人ホームのケアマネからもちょくちょく連絡が入りました。


父からは「ホームで誕生日を祝ってもらったので、皆に御礼をしたい」とか

「プリンターが壊れたから電気屋を呼んで修理してもらいたい」とか。

ほんとに、あれこれと。

ほとんどが「そりゃ無理です、できません」みたいなことばっかり。


「スタッフさんへの差し入れは私が行く度にお菓子を買っていってるし、

それに入所者がホーム内で他の人にモノを配ったりしてはいけないよ」

「プリンターはほんとに壊れたの?使い方を間違っているだけでは?」

などと、いちいち対応するのが面倒で仕方なかった。


他にも家族との面会の時間が決められているのを、「融通がきかない」と怒ったり。

施設に入れられて、いろいろ不自由もあっただろうけど、

そこは諦めてもらうしかないよ・・・と言いたくなるようなことばかりでした。


ケアマネさんからは

「お父様が自室のテレビでBS放送を観たいとおっしゃっています」とか。

このBS放送の件では、ほんとにすったもんだがありました。

まず、ケアマネがデジタル的なことが苦手な人で、

ホームのテレビ視聴環境について尋ねても要領を得ない。

すったもんだの挙句(詳細省きますが)、そういうのに詳しい男性スタッフさんが

「分波器」というものを貸してくれて、無事にBS放送が観られるようになりました。


すぐに老人ホームに行くこともできず、いつも電話のやりとりだけなので

もどかしい思いをしながらも、1つ1つ解決していくしかなかった。


母もたびたび父から呼びつけられて、老人ホームまで出かけていたようです。

そして、母は母で、一人で家を守らないといけないのに、

なんでもかんでも面倒なことはあいかわらず父に頼る。

役所とか保険会社とかからの公的な郵便物もろくに中も見ないで、

父のところに持って行ってました。

わからないならわからないで、せめて父に届ける前に私に相談してほしかった。

それをいくら母に言っても、ちっともいうことを聞かない母でした。

2026/04/14

介護付き有料老人ホーム-回想-

介護付き有料老人ホーム(以下、老人ホームと略します)に移った父。

そこは複数の看護士さんが常駐しており安心でした。

もちろん介護士さんもいつも数人はいて、24時間サポートしてもらえました。

ベッドにはセンサーが付いていて、夜間などにもし長時間ベッドに寝ている反応がない場合はアラームで宿直のスタッフさんに通知が行くようにもなっていました。


サ高住ではできなかった点滴などの医療処置も可能でした。

引っ越し当日、父の部屋を整えて帰路についた私に老人ホームから電話。

足の浮腫みがひどく尿量を調べるためにも尿管にバルーンカテーテルを装着します

という連絡でした。

その時は一時的なものかと思ったけど、結局、父が亡くなるまでカテーテルと

採尿バッグは付けたままでした。


サ高住(といっても父がいたのは小規模でシェアハウスのようなもの)と比べると、

かなり手厚い介護と見守り体制でようやくホッとできたけど

その分、利用料は跳ね上がりました。今度は金銭的な心配が浮上しました。


それから、改めて調査・審査を経ておりた介護認定はなんと「要介護4」!

要支援2からいきなり要介護4ってどう考えてもおかしい。

やっぱりそれまでの「要支援2」がおかしかったのです。


最初から要介護3以上なら、もっと費用が安い特養も選択肢にできたのに

とチラッと思いもしたけど、それを今、言っても仕方ない。

父がようやく安心できる場所に落ち着けるなら、これでよかったのだと

思うしかありませんでした。

2026/04/13

父、入居1カ月後には退去・移転-回想-

サ高住になんとか入居できた父でしたが、

部屋の中で転倒を繰り返すし、さらに心臓の具合もよろしくない。

運営元の医院の先生(父の主治医となりました)や施設のスタッフさんから

入居したサ高住と同じ系列の老人ホームに移った方がいいと提案されました。


父は要支援2のままだったので、該当の老人ホームの入居資格がないのですが

現状、どう見たって要介護1には必ずなるはずとのことで

(だから前々から私はそう思ってケアマネにも訴えていたのだけど)

要支援から要介護になるのを見越して老人ホームへの引越しを検討し始めました。


ちょうど老人ホームの方に空き室が出たというタイミングでもあり

だからこその医師やスタッフさんからの提案であったのですが、

他に空きを待っている方もいるので、移るかどうするかすぐに返事を下さい

と言われました。


なので私も即答。父にはケアマネさんから、母には私から説明をしました。

他の兄弟には相談する暇もなくて、事後報告となりました。


結局、サ高住入居一カ月後に次の介護付き有料老人ホームへの引っ越し。

同系列とはいえ別の施設なので、契約も最初からやり直し、

ケアマネもその施設所属の方に変わりました。

その間、目が回るような忙しさだったけど、

もうとにかく必死で「忙しい」と感じる余裕すらなかった。

ケアマネさんや施設のスタッフさんらに助けられてどうにか乗り越えたという感じでした。

2026/03/27

施設に行ってからも転倒を繰り返す父-回想-

 施設に入る時に職員の方から

「今まで自分で頑張ってやってきたことも、今後はお世話してもらえるので

 おそらくできることは減っていって、弱っていかれます。

 でも今は日々の安全の方が優先ですから、施設入居の決断は正しいと思います。」

と言われました。


自宅よりは、居室からトイレも近いし(というかベッドからすぐの距離)

床はフラットで、部屋の中にも突っ張り式の手すりもつけてもらった。

確かに自宅にいるより、ずっと安全だと思われました。が・・・


父は1年前に心臓のペースメーカー埋め込みの手術を受け、

それまでの足の浮腫みもなくなり、しばらくは調子がよかった。

でも施設入居の頃には、また足がパンパンに浮腫むようになっていました。


入居後すぐに利尿剤を処方されるようになり、

その影響でトイレに頻繁に行くようになったのだけど、

そのために、さらに転倒の回数が多くなってしまったのです。

手すりを完備しても、足腰腕の筋肉が弱りつかまることが難しかったようで。


転倒するたびに職員の方を呼んで助け起こしてもらっていたそうで、

運営元の病院の先生から

「これはサ高住では無理。老人ホームに移った方がいい。」と言われました。

入居後1カ月もたたない時でした。

2026/03/26

父が施設に落ち着くまで-回想-

なんとかサ高住に入居できた父でした。

床と天井で突っ張る転倒防止バー(手すり)を取り付けてもらいました。

部屋の真ん中に突っ張り棒が立っているので、

普通に考えたらものすごく邪魔なものでしたが、

すぐによろけて転倒する父のためには必要なものでした。


父はそれまで通っていたデイサービスを辞め、

施設と同じ系列の別のデイサービスに通うことになり、

入浴もそこで済ますことになりました。

部屋の掃除や洗濯は、週2回来てくれるヘルパーさんがやってくれました。


突っ張り棒を付けてもらう介護用品の会社、

新しいデイサービス、

ヘルパーさんの派遣会社、

それぞれの契約をして支払い方法を確認して、それを父に伝える。

一度にいろいろあって大変でしたが、必死の思いで頑張りました。


部屋に持ち込んだ物品を整理・配置し、延長コードやテレビも設置。

Wi-Fiの設定も完了。

母は契約関係はからきしダメなので私が主導しましたが、

父の引越しについては衣類をクローゼットにおさめたりと手伝ってくれて

「この年になって “一人暮らし”なんてねぇ」とか言ってましたね。


父は施設で、母は自宅でそれぞれ年を越すこととなりました。

2026/03/23

父のパソコン使用状況-回想-

なんとか施設に入居することができた父。

父の施設入居の条件が、自分のノートパソコンを持っていけること、でした。

ケアマネさんからは「パソコン持込可の施設は少ない」と言われたけど

実際にはそうでもなかったみたいな。

(調べた施設の数がごくわずかなので、何とも言えないけど。)


父が入ったサ高住は個室だし、持ち込めるものの制限は緩かったです。

電気湯沸かしポットなんかも持ち込めたし。

それでパソコンもOKだったのですが、Wi-Fiはありませんでした。


なので、回線工事不要の置き型ルーターをレンタルして、

Wi-Fiの契約を「私が」しました。月々の利用料も「私が」払いました。


ともかく無事にパソコン使用の環境ができたので、

施設に行ってからも父は自分でネットバンキングをやっていました。

施設の利用料の口座引き落としなども管理していました。

そして、なんと施設に行ってからも株を買っていました(怒)

2026/03/22

父、ついに施設へー回想-

母の入院から父の施設入居まではジェットコースターのような日々。 


父が入った施設は情報がいっさい外に出ておらず、

ネットで検索しても全くヒットしませんでした。

おそらく、部屋数も少ないので大ぴっらには入居者募集をしておらず、

ケアマネさんなどを通じて口コミのみで部屋を埋めているようでした。


ありがたいことに、父のケアマネさんは優秀で顔も広い方で

施設の管理者の方につないでもらえました。

部屋がちょうど空いたタイミングでもあり、ラッキーでした。


いわゆるサ高住(サービス付き高齢者住宅)で、

要支援2の父でも入れる施設。病院が運営元でした。

トイレと洗面台とクローゼットが付いた個室で、

ベッドは備え付けのものがあったけど、テレビやテーブルなどは

自前のものを持ち込まないといけないので、ちょっとした引っ越し。


バタバタと運送屋さんの手配をし、

掃除用具などを買いそろえ(掃除はヘルパーさんがやってくれる)

なんとか引っ越しを済ませて、私は自宅に戻りました。


一方で母は心筋梗塞の後遺症は何もなくて、退院後は普段の生活に戻れました。

父が施設に入れることになり、母もホッとしていました。

それまで本当に気が休まらない日々だっただろうし、

外出できるのも父がデイサービスに行っている間だけでしたので。


母の入院・退院、父の施設決定、契約、入居(引っ越し)

全て一人でやりきりました。

他の兄弟には事後報告という形になってしまったけど、

とにかく即決しないといけない状況だったので仕方なかった。

2026/03/21

母の入院から父が施設行きを決心するまでー回想-

母の入院期間は、今回は半月ほどでした。

とは言え、その間ずっと実家に滞在するわけにもいかず

(私にも自分の病院の予約とかいろいろ用がありますし)

父にショートステイに行ってもらうなどしながら

実家と自宅を行ったり来たりしました。


母の入院中に父の定期健診の予約が入っていて、

ほとんど歩けない父をタクシーでC総合病院まで連れていったりしました。

その頃は父はシルバーカーという「手押し車」のようなものを使っていましたが

ちょっとしたことでよろけて転倒するので、気が気じゃなかったです。

いつも病院へは母が付き添っていたのだけど、高齢の母にとっては

それも重労働だったろうし、精神的なプレッシャーもあったと思います。


母が入院したD総合病院のソーシャルワーカーさんや

父のケアマネージャーさんから

「お母様はもう限界です。お父様に施設に行ってもらいましょう」

と言われました。


それまで施設に行くことに抵抗を示していた父も、さすがに観念したようでした。

それに、自分はどんどん不自由なことが増えていくのに、

母は思うように自分の世話をしてくれない、いっそ施設に行った方がよいかも、

と私に母への愚痴をこぼしたりしました。


ショートステイ先で至れり尽くせりのお世話を受けて、

そう感じたようにも見受けました。


理由はなんにせよ、やっと父が施設入所を前向きに考え出したので

この機を逃すな!とばかりに、ケアマネさんがいくつか施設を

ピックアップしてくれて、さっそく父と一緒に見学にも行きました。


その中で、小規模のサ高住でたまたまお部屋が空いたばかりなので

「今ならすぐ入居できます」と言われたところに入ることを決めました。

2026/03/17

母、またもや緊急入院ー回想ー

2023年に体調を壊して1カ月も入院した母でした。

その後は元どおりの生活に戻り、母自身は買い物やカーブスにも

特に不自由なく出掛けていました。

私はだいたい3カ月に一度のペースで帰省して、

家の中の片付けなどを手伝っていました。


でも2024年の初冬にまた母が入院。今度は心筋梗塞でした。


自宅にいた私に突然の電話。両親のかかりつけのA内科からでした。

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 ※実家の近くの両親のかかりつけ医:A内科

 ※母が最初に入院した中規模の病院:B病院

 ※父が過去に心臓の手術を受けていた総合病院:C総合病院

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「お母さまが心筋梗塞を起こしているので、これから救急車で

 D総合病院に搬送します!」⇒D総合病院に入院

私は急遽、飛行機のチケットを手配して、当日の夜遅くに実家到着。


後で聞いたところによると、数日前から「胸が痛かった」らしいのだけど

母は(というより高齢者ゆえか)毎度、自分の体調に鈍感で、

ギリギリまで病院に行かず、結果的にいつも大騒動になる。


A内科へは定期的な診察の予約が入っていたから朝から行って

「胸が痛いんですが」と話して検査をして、「これは大変!」となったそう。


D総合病院に到着した時は一瞬心臓が止まったそうで、

心臓マッサージだか電気ショックだか知らないけど

蘇生術をやってなんとか意識を取り戻したようです。

「危なかったです」とD総合病院の主治医から言われました。


前年の入院時も「おかしい」と思った時点で病院で検査をしていれば

1カ月も入院しなくても、いや入院などしなくてもすんだかもしれないのに。

母は決して病院嫌いというわけでもないのだけど、

どうも「たいしたことない」と安易に考えてしまうクセがあるらしい。

上にも書いたように、高齢者は全てにおいて鈍感になるので、

実際、本人的にはたいして苦しさを感じなかったのかもしれませんが。


とりあえず間一髪のところで救急搬送されて、なんとか助かりました。

診断は心筋梗塞ということだったけど、後遺症もなく、

その後は順調に回復しました。


ただし母の入院中は父が実家に一人残されることになったので

またもや私は自宅に戻ることができず、実家に滞在することになりました。

もうこの時は「すぐに戻れない」との覚悟もあったので、

準備もちゃんとして行ったけど、ほんとにほんとに頭の痛いことでした。

2026/03/16

なぜ両親はずっと二人暮らしだったのかー回想ー

ところで、夫婦二人では生活が立ち行かなくなりつつある両親を

なぜいつまでもそのままにしておいたのか?という話。


弟は定年までまだ数年あり、今ここで仕事を辞めるという選択は

彼の中にはありませんでした。

また仕事の内容からいっても地元に帰っての転職は難しかった。


妹は受験期の子どもを抱えていました。

妹の夫もまた定年前で簡単に転職して九州へ、とは考えられませんでした。


私は・・・

実はもう何年も前に、母に「将来のことなど考えているのか?」

「(弟と)何か話をしているのか?」と聞いたことがあります。

その時点でなら、私と夫(夫も九州出身)が九州に帰る選択肢が

全くないわけでもなかったので。


でも母はなぜか怒り出し「自分たちのことは自分たちでどうにかする!」と。

「余計なお世話」と言わんばかりで、とりつく島もなし。

なんで私が怒られないといけないのか?でもまあ母はそんな人でした。

なので、私が若い頃は帰省のたびに母とケンカしていました。


正直、その時から私は両親のことは「もう知らん」と思っていました。

ここ数年、いつもいきなり呼びつけられ、理不尽な思いをしながら

でもすぐに帰れるのが私しかいないから、仕方なく帰っていたのです。


そもそも「地元」と言っているけど、父が転勤族だったので、

両親が最後に住んでいた土地に私たち兄弟は何のなじみもありません。

友達もいません。自分たちの「地元」ではないんです。

だからこそ、弟は定年後ですら両親の元に帰る気持ちはなかったかも。


子ども3人とも、遠い関東に進学や就職をさせて、

そこで3人の子どもはそれぞれ伴侶を得て、長く暮らしてきた。

父は弟に定年後に帰ってきて欲しかったようだけど、

はっきりとそういう話をするでもなく、

そもそも弟の定年までまだ何年かあったにも関わらず、

それを待つ前に自分たちはどんどん衰えていった。

なのに自分たちの行く末を考えず、何の準備もしてこなかった両親に

呆れるばかりで、ため息しか出ない私でした。

2026/03/15

施設入居の話はいったん立ち消えー回想ー

一時は父の施設入居を兄弟たちで真剣に検討しましたが、

当の本人が「施設に行くのはまだ先でいい」という気持ちに落ち着き、

母も一カ月の入院で、退院後はだいぶ体力が回復したので、

父の施設行きの緊急性が若干薄れました。

(決して緊急性がなくなったわけではない。)


時々、兄弟で日程をずらしながら帰省して、とりあえず様子見という感じ。

ただいずれは施設に行くことになるだろうから、

できるだけ早く身辺整理をするよう両親には言っていたけど、

本人たちは全く危機感がなくて、正直嫌気がさすほどでした。


また、父はますます足腰が弱り、家の中でも転倒を繰り返していました。

転倒だけでなく、座っていた椅子からずり落ちたりとか。

尻もちをついたり、倒れてしまったりすると、

父は自力では起き上がれず、また母が助け起こすこともできず

ケアマネさんに来てもらったり、一度は警察に電話して

お巡りさんに来てもらったこともあったそう。


父は寝たきりでもないし、食事や着替えなどは自分でできていたから、

「介護」というほどではなかったものの、

トイレの失敗は頻繁だったようだし、

(ゆっくりしか歩けないのでトイレが間に合わなかった)

とにかく、転倒が怖くて目が離せなかったそうで、

やはり母ひとりで父の面倒を見るのは無理がありました。


そして母がまた入院します。

2026/03/03

父の施設探しが難航した理由その2ー回想ー

第二の理由はずばり介護認定です。

前にも書いたように、父は要支援2でした。

心臓のペースメーカーを入れる手術をした後で、再度審査を受けたけど

やっぱり要支援2のままでした。

誰かの介助がなければ一人では生活ができないにも関わらずです。


聞くところによると、認知症が全く無い状態だと要介護にはなりにくいのだとか。

あと地域によっても、審査が厳しいところ甘いところがあるようです。

(施設の数が足りないとか、財政が厳しい自治体だったりすると

 審査が厳しくなるのか?)


で、要支援2だと、そもそも入れる施設が限られます。

要支援1や2、あるいは介護認定のない人も受け入れ可能という施設でも

順番待ちの優先度がやはり介護度の高い人からになるので、

要支援2だと後回しにされるようです。


そんなこんなで、現状で入居可能な施設がみつからないまま月日がたち、

母が退院してきて、またもとの二人暮らしに落ち着きました。

一時弱気になっていた父も「もうしばらくこのままで」と言うし

私たち子どももそれ以上、無理に父の施設行きを勧めることもできず

施設探しはいったん立ち消えとなってしまいました。

2026/03/02

父の施設探しが難航した理由その1ー回想ー

まず第一に、父には「今すぐ施設に行く」という気持ちがなかった。

というのも、足が弱り外出もままならなくなった父にとって、

趣味というか日々の楽しみが株とパソコンだけとなっていました。


株の取引きにはパソコンが絶対必要だし、パソコンで「数独」などの

ゲームも楽しんでいました。

ちなみに銀行口座の管理や振込などもネットバンキングでやっていました。

だから「パソコンが持ち込める」というのが施設探しの絶対条件でした。


ところが、その時点でパソコンが持ち込めて、且つWi-Fiが使える施設

というのがまだあまりなかったのです。

施設によっては貴重品の持込が禁止で、パソコンも貴重品扱いだったりもしたし。

そもそも父の年齢でパソコンを扱えるという老人が、あんまりいなくて

施設側にもそういう想定がまだなかったようでした。


というわけで、父にとっての施設入居の条件が「パソコン」だったのだけど

その条件がかなう施設が、私の実家周辺ではほとんどありませんでした。

2026/02/26

ちょっとだけ現在の話ーお雛様を寄付ー

すっかりブログを放置しておりました。

両親の死後の諸々の手続きや四十九日の法要で、

あいかわらず遠い実家と自宅を行き来しておりました。


現在は自宅にいます。

ここで突然ですが、断捨離ネタを。


以前、雛人形の処分に困っている話を書きました。

おひな様どうする?

その後、たまたまだけど区の公設?リサイクルショップで、

雛人形の寄付を受け付けていることを知りました。

季節ものなので、持ち込めるのは1月2月のみ。


去年のうちから「年が明けたらお雛様を寄付しにいこう」と構えていたけど

年末年始は両親の葬儀でそれどころではなくなっていました。

ようやく自宅に戻れて落ち着いたので、リサイクルショップに連絡して

ギリギリだったけど、雛人形を持っていくことができました。


ショップでは既に他の方から寄付されたお雛様が店頭に並んでいました。

どれも、親王飾り(男雛と女雛の二人だけ)で、

狭い店内に置けるものしか受け付けていないようでした。


うちの雛人形も親王飾りで、傷みも汚れもない良い状態だったので

無事に寄付を受け付けてもらえました。


実は娘が生まれてから数回しか、飾ってあげられなかった

我が家のお雛様。申し訳なかった。

次は大事にしてもらえるお宅に受け継がれていきますように。

2026/02/02

両親ふたりだけの生活は限界と思えたー回想ー

その前に今現在の話。

両親とも、自分のPCとスマホを持っていました。

90歳前後という年齢を考えると「すごいですね!」と周囲の人からは言われます。


電話での通話以外に連絡手段があるということで、大変助かったのは事実です。

特に入院中や施設に入ってから。

本人たちはスマホを常にベッドの枕元に置いていたから、

メールでやりとりすることができました(母とはLINEも)


しかし!両親が亡くなった今、それらの「デジタル遺産」の処理で

私はかなりの手間と時間をとられています。

それについては、また別の機会に。2年前の話のつづきに戻ります。

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両親はそれぞれ別々の病院に入院することになりました。

コロナ禍のなごりで面会の制限がまだあったとはいうものの

医師やソーシャルワーカーとの面談、栄養指導などなど

毎日のように病院に通って大変でした。

それでもなんとか二人とも退院にこぎつけたのですが・・・。


当時、父の介護認定は「要支援2」

※今、これを書きながら「要支援1だっけ?2だっけ?」と。

 早くも記憶がおぼろげになってる!

ですが、「要介護じゃないなんて何かの間違い?」というくらい

あちこち不自由になっていて、日常生活に支障が出ていました。


また父が気にしすぎなところもあったのか、やたらと病院に行きたがる。

眼科、耳鼻科、皮膚科。

歩行も困難な父を連れての外出はそれだけで付き添う方は疲労困憊なのに。


私も母の入院中、父の世話をしていて「こりゃ大変だ!」と思いました。

このまま夫婦二人の生活に戻ったら、母がまた過労で倒れてしまう。


ケアマネさんの勧めもあって、父の施設探しが始まりました。

でもこれが、難航するばかりで、話はちっとも進みませんでした。

2026/02/01

両親それぞれが入院という事態ー回想ー

母は腎盂炎でB病院に入院。一応、腎盂炎という病名はついたけど、

そもそもの原因は過労とストレスであったろうと思います。

なので弱った体力を取り戻すために退院までには時間がかかりました。


父はそれまで、家の中でも外でも転倒を繰り返していて、

しかも筋肉も弱っていて、一度転ぶと自力では起き上がれない。

また転んで顔面を打って流血騒ぎとなり、救急車で病院に運ばれたことも。


そんな父と暮らす母は四六時中、気を抜けず、

また父の通院の付き添いも大変で心労が重なっていたのでした。

またそんな状態なのに不摂生を改めようとしない父へのストレスも

溜まりに溜まっていました。


母は入院することで、そんな気苦労からは解放されたのだけど、

問題は母の入院中、父をどうするか?

転倒を繰り返しているので、家に一人で置いておくのは危険。


というわけで私と妹が交代しながら、実家と自宅を行ったり来たりしました。

(飛行機か新幹線でないと行けない距離です)

私も妹もどうしても行けない時は、ショートステイを利用しました。

ケアマネさんがいろいろ手配して下さって、ありがたかったです。


そうこうしているうちに、父の心臓の具合がよくならないので

とうとうペースメーカーを入れることになり、

父はC総合病院で手術・入院となりました。


そしてその頃から、父の施設入居の話が上がり始めました。

2026/01/31

両親が一度に具合が悪くなりー回想ー

ここのBlogは、私の「ズボラながらも老活、終活を進めていこう」

という決意のもと、あれやこれやを書いていくものであったはず。

が、自分の終活の前にまず親の看取りという問題と向き合わざるをえなくなりました。


楽しい話ではなけれど、記憶が薄れる前に書き残すことにします。

愚痴やうっぷんもここに書いて晴らしたい。そして前を向きたい。

そんな気持ちで書いていきます。しばしお付き合いください。

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さて、今後、いろいろな医院、病院が出てきます。

なので略称を決めておきます。


実家の近くの両親のかかりつけ医:A内科

母が最初に入院した中規模の病院:B病院

父が過去に心臓の手術を受けていた総合病院:C総合病院


母はひどい炎症反応と脱水症状でB病院に入院⇒腎盂炎という診断。

一方、A内科で「不整脈がある」と言われた父を

心電図モニターを24時間装着した結果と紹介状を持って

C総合病院に連れていきました。


そこで言われたのは「ペースメーカーを入れた方がよいのではないか」。

でも父の決心がつかず(手術が怖い)、

ひとまず薬を変えて様子を見ようということになりました。


最初、父から「ちょっと(母の)様子を見に来てくれ」と言われ、

私自身も母は少し体調を崩しただけだろうくらいに思っていて

数日で自宅に戻るつもりでいました。


なのに母は1カ月入院、父も心臓の具合が悪いとなって

帰るに帰れなくなりました。

A内科で「C総合病院に予約を入れるから、いつがいい?」と聞かれ

「あの、私は一度東京に帰りたいんだけど」と言ったら

医師から「えっ!帰るのっ?」と強い口調で言われたことは忘れられない。


私だって自分の家庭がある(夫と二人だけど)。

私だって持病の薬を取りに帰りたい。

そもそも家をそんなに長く空けるつもりで実家に来てない。

なんてことを医師に言っても仕方ないので、のみ込んだけど。


妹が私と交代で実家に来てくれることになったものの、

妹は妹で都合があり、すぐには来られない。普通はそう。

でも両親は私なら"すぐに" "いつでも"来られると思っている。

その認識に後々苦しめられることになります。

2026/01/30

母、一度目の入院ー回想ー

正確に言うと、母はそれまでも二度ほど入院しています。

ただ、私の「失われた2年半」の間にも母は三度入院していて、

その中の1回目という意味。


父からのSOSで私が実家に駆け付けたのは日曜でした。

翌日の月曜にかかりつけの近所の医院に予約が入っているというので

母と父の二人を連れて行きました。


そこで検査の結果を見た医師から

「お母さまが大変なことになっています!」と言われ、

すぐさま入院設備のある別の病院に移動することに。

そして、なんと父も不整脈があるといわれてしまいました。


母の入院準備や、父の大きな総合病院への紹介状の受け取り、

などなど私は走り回って大変でした。

いや「大変でした」なんて一言ですむような話じゃなかった。

今も思い出したくもない。でもその時は必死でした。


私が実家に着いた日に、食欲がないという母のベッドにお粥や果物を私が運んだことも、

かかりつけ医から入院する病院へタクシーで移動したことも、

そこで母が改めて検査を受けている間に私が家に戻って

入院のための荷物を持ってきたことも、

母はなーんにも覚えていませんでした。後で聞いても何一つ思い出せなかった。

どんだけ弱っていたのか。(ちなみに母に認知症はなかったです。)


母の入院後しばらくたってから(いろいろ検査してから)、

病名は「腎盂炎」と告げられました。

とにかく体力も落ちているので、退院まで長くかかるだろうと

入院当初から言われていて、実際に1カ月も入院することになりました。


父は父で、心臓がおかしなことになっていて、

一気に何が起こったのかわからないくらいの混乱だったけど

私は変に冷静だったなーと、今になって思いますね。

私が一人で奮闘するしかない状況でしたし、おろおろしてる場合じゃなかったので。

2026/01/29

2年半前の父からのSOSの顛末ー回想ー

母も父も亡くなってしまった今、

私はある意味、穏やかな気持ちで過ごしています。

というのも、もう病院や施設からの急な連絡は来ないから。

電話が鳴るたび「今度は何?!」とドキッとすることがないからです。


さて、昨日のblogの続きです。

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「ここ数日何も食べていないし2階から降りてもこない」

と母のことで父から電話があったのが夜の10時頃。

私は翌朝すぐに実家に向かうべく、チケットの手配に取り掛かり、

その間に妹(妹も実家から遠くに住んでいます)が

実家近くの警察に連絡してくれました。


事情を話して、お巡りさんに様子を見に行ってもらいました。

暑い時期だったので熱中症にでもなっているのではないかと心配したけど

お巡りさんからの連絡で、そこまで深刻な状態ではないとわかりました。


後からわかったのだけど、母は自分のスマホを1階に置いたまま

2階で寝ていたので、こちらからの連絡に無反応でした。

また母が言うには父へのある感情から、いわばストライキみたいな

つもりもあったらしい。

だから父の食事の支度もせず、自分は食欲がないしで、

1階に降りることもなく2階で寝ていたと(トイレは2階にもあり)。


そう聞くと、なんとも人騒がせな話ですが、

でもでも事情はちょっと違います。

というのも、この日のことを母は後で何も思い出せなかった。

なんと家にお巡りさんが来たことも何も覚えてなかったのです。


あとからいろいろ言い訳してたけど、

実際には母はかなり具合が悪い状態だったのです。


ともかく、父がこの第一報を私にしたことで、

この後の全てを弟でも妹でもなく私が主導することになってしまったのでした。

2026/01/28

始りは2年半前ー回想ー

2023年の夏、突然、実家の父から電話。

母が具合が悪く2階の寝室で寝ていて、全然降りてこない。

「ちょっと様子を見に来てくれ」という電話でした。


父はその頃、もう2階への階段を上がれないくらい

足が弱っていました。

自分で2階にいる母の様子を見に行けないから、

私に来てくれ、という話でした。


私は東京に住んでいます。

実家は九州です。


「は?」という感じですよね。

この話をすると、誰もがびっくりします。


これが、私の親に振り回される2年半、

私にとっては「失われた2年半」の始りでした。

(つづく)

2026/01/27

父も亡くなりました

母のちょうど1カ月後に、父も亡くなりました。老衰でした。


施設にいた父は、介護タクシーで葬儀場まで来て、母の葬儀に参列しました。

その後、風邪の症状があったらしいのだけど、

食事が摂れなくなり、どんどん弱って、そのまま亡くなりました。


母が亡くなったら、父もそう長くは生きていないだろうとは思っていたけど

まさか1カ月で亡くなるとは予想していませんでした。


いろんなことがまだ片付いていないし

バタバタしていて記憶がどんどん消えていく。恐ろしいくらい。