2026/04/23

去年の11月、私はほとんど自宅にはいませんでした

10日間実家にいて、母の転院などを済ませて自宅へ。

その一週間後にはまた実家へ。


葬儀屋さんのセミナーに参加して、互助会に入会しました。

老人ホームにいる父を介護タクシーで母のいる病院へ連れていきました。

二人が会うのは、これが最後となりました。


母の妹たちや近所の仲のよい人たちが、

それぞれ病院まで母に会いに来てくれました。


母と一番仲のよかった叔母には、

看護師さんが「面会の時間制限は特別に無しにします」と

言ってくれたらしい。叔母は隣県から何度も来てくれました。


私は母の病院に通いながら、

実家のケーブルテレビの解約などなど

いずれ空き家になってしまうであろう実家のあれこれの手配を

続けていました。


ご近所にはごくごく限られた、母が信頼している方にだけ

母の入院先と病名を知らせていましたが

お隣の奥さんをはじめ町内会の方に親切にしていただいて

ありがたかったです。


また父がいる老人ホームのケアマネさんは

「お父様のことはこちらに任せて、今はお母様の方に専念してください。

そうでないと娘さん(=私)が倒れてしまいますよ」

と言ってくれました。


孤軍奮闘していたようで、実際はそうではなかったのかな

と今になって思います。

でもその当時はとっても孤独な戦いのように感じていました。

私の兄弟たちにメールやLINEで状況を逐一報告していたけど、

それに対する反応の薄さ(というか反応無しだったり)が

すごく辛かった。


もしかしたら、彼らは母の最期に近いことを

受け止めたくなかったのかもしれないけど。

2026/04/22

母が転院先の病院に入院してからの日々-回想-

母がD総合病院から実家近くのE医院に転院したのは11月の初め頃。

入院手続きからはじまり、諸々のシステムが大きな総合病院とは異なり

戸惑うことも多かったけど、看護師さん達が適切に対応してくれました。

私が滞在している実家から近くなったし、

面会の予約が不要(総合病院は前日までに要予約)なのも助かりました。


病院からいろいろ持ってきてほしいものを毎日のように連絡してきて、

また母もLINEであれこれ言ってきていたので、

私はほぼ毎日、病院に通いました。


また老人ホームにいる父に会いに行き、母の病状を伝えました。

E医院の先生から「葬儀屋は決めてあるの?」と聞かれたので、

それも父に聞きました。

父は認知症もなく頭だけはしっかりしていたので、

まず父の意見を聞いておいた方がよかろう、との判断で。


父には母の入院のことを「検査入院」と伝えていたので、

「癌でした」と聞きショックではあったと思います。

でもその時は突然すぎて、いまいちのみ込めていない感じでした。


一方の母は「自分はこのまま家に帰らず施設に行く」と思って

それなりの覚悟を決め、生協の配達とか新聞の配達などを

解約してほしいと言いました。


私ももう母が家に帰ることはないと決まったも同然なので、

今まで母の抵抗が強くてできなかった、実家片付けに着手。

まず台所にあふれる鍋、フライパン、ざるやボウルを処分しました。


そして、老人会を通じて付き合いのあった葬儀屋を

父から教えてもらったので、そこにも話を聞きにいきました。

ちょうど合同セミナーのような催しがあるというので、

とりあえず参加の予約をしました。

身近な人の葬儀というものの経験がなく(参列したことはあっても)

何もわからない状況だったので、藁にもすがる気持ちで

セミナーに出てみることにしたのです。


そんなあれこれの手配をして、いったん自宅に戻りました。

2026/04/21

マイナ保険証の認証方法

ちょっと脱線しますが。

転院先での母の入院手続きの際に気がついたことが1つ。


今は健康保険証が廃止されて、マイナ保険証になりましたね。

母もマイナンバーカードを持っていました。

受付のカード読み取り機にマイナンバーカードを入れた時、

認証方法について「暗証番号か、顔認証か」との表示が出ます。


母に「番号は?」と聞いたら、

「いつも顔認証だから暗証番号は覚えていない」と言いました。

じゃ、顔認証で、と思ったけど、

母は車椅子に座っていて、受付カウンターに置いてある読み取り機に届かない。


車椅子から立ち上がるのも難しく、

また受付のスタッフさんもそこまで要求をせず

カード読み取り機を母の顔の位置まで持ってこようとしてくれました。

読み取り機の電源コードをギリギリまで引っ張り、

なんとか顔認証できたのだけど、なんか一騒動になってしまいました。


これがストレッチャーに寝たままだったりしたら、顔認証は無理でしょうね。

顔認証は番号を覚えてなくてもいいから便利なようで、これは盲点でした。


以来、私は自分が病院にかかる時、

マイナンバーカードの認証は顔ではなく暗証番号でするようにしています。

常日頃から番号を入力するようにしておけば、とっさの時に「忘れた!」

ということにならないだろう、と思って。


本人が意識すら失ってしまっていたら、暗証番号も何もわからないわけだけど。

(まあその時はどうにかして顔で認証してもらう、笑)


年をとると何でもかんでも忘れてしまいます。

病院の受付で毎度、暗証番号を押す。せめてもの「物忘れ防止対策」です。

2026/04/20

母の転院先決まる&余命宣告-回想-

そうこうするうちに、やっと母の転院先が決まりました。

実家から歩いていける近さの病院だったので助かりました。


母がD総合病院に入院した直後に弟夫婦が見舞いに行った時は

母はスタスタと自分で歩いて面会室まで来たそうです。

でもその10日後くらいに私が行った時は車椅子を使っていました。


D総合病院から転院先の病院(E医院とします)までは

当初タクシーで移動するつもりでいましたが、

転院の前日から酸素投与が始まったので、

専用の機材がある、病院の公用車で送ってもらえることになりました。

要するに救急車仕様の車でした。


転院先でさっそく医師から私に話があり、余命宣告を受けました。

D総合病院の先生に余命を聞いた時は「年単位ではない」と言われ、

それをE医院の先生に話したところ、

「月単位でもないです」とはっきり言われました。


さらに「お母さんはもう退院はできないでしょう。

うちで最期までしっかりみますから、施設は探さなくていいです」

とも言われました。

辛い宣告だったけど、率直に話してくれた先生に今も感謝しています。

これで私の覚悟も決まったので。

2026/04/19

母の入院から先は怒涛の日々-回想-

今にして思えば、母の入院から一気に坂を転がるように

事態は悪化していったのだけど、その当時は先が見えない中で

病院の先生や看護師さんに言われたこと、

父がいる老人ホームから言われたことを

ただひたすらこなしていくので精一杯な日々でした。


弟夫婦が実家から自宅に戻った後を引き継いで私が実家に戻りました。

母が入院しているD総合病院と父がいる老人ホームは

全然違う方向に離れていて、

「今日はあっち、明日はこっち」と動き回っていました。


母の治療方針は積極的な延命治療は行わず緩和処置のみとする、

と決まったので、総合病院にいつまでもいるわけにはいかず

転院先を探してもらっていました。

いつになったら転院先がみつかるのかも全くわからない中、

私は実家で待機する毎日でした。


地域包括センターの母を担当してくれていたケアマネさんに

義妹(弟嫁)が事情を話してくれていました。

ふと思いついて、私も挨拶だけしておこうと包括センターに行ったら、

ちょうどケアマネさんが内勤で、会って直接お話しができました。


D総合病院の先生からは

「転院先で病状が落ち着いたとしても、もう家で一人暮らしは無理だろうから、

 退院後はそのまま施設に入るのがいい」と言われていました。

なので、母が入れそうな施設を探してもらうのと、

母の介護認定の申請は義妹から既にお願いしてありました。

(母はまだ何も認定を受けていませんでした。)


ケアマネさんは、とにかく緊急で介護認定がおりるよう手配をする

と約束してくれて、実際にすぐに動いてくれました。

近くに誰も相談する人もいない状況で、

地域包括センター、ケアマネさんの存在はほんとに心強かったです。

2026/04/18

母、三度目の入院ー回想ー

私の「失われた2年半」における「三度目の」入院です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ※実家の近くの両親のかかりつけ医:A内科

 ※母が最初に入院した中規模の病院:B病院

 ※父が心臓の手術を受けた総合病院:C総合病院

 ※母が心筋梗塞で入院した総合病院:D総合病院

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここからは昨年(2025年)の10月以降のblogと内容が重なる部分もあります。


夏頃から食欲が落ちてきた母は、デイサービスに行く以外は家で

ゴロゴロしてたり、変な時間に昼寝(夕寝?)をしたりしていました。

「少しでも具合が悪いならすぐ病院に行くように」と何度も言いましたが

母は「A内科で診てもらっているから大丈夫」と言っていました。


10月の診察時に激やせした母を見た先生が驚いて

「詳しく検査してみましょう」となり、その結果

「紹介状を持ってD総合病院に行ってください」と言われました。


それだけを母から聞いて、私は「これは即入院だ」と直感。

母には入院時の持ち物リストをすぐに送って、

「これを自分で用意して必ず持っていくように」と言いました。


案の定、母は入院となりました。

たまたま帰省を予定していた弟夫婦がD総合病院に行って、

主治医の先生から詳しい病状説明を母と一緒に聞いてきました。


母は癌で、複数転移、ステージ4との診断でした。

2026/04/17

徐々に徐々に弱っていく両親-回想-

前のblogで父のクレジットカードの解約が大変だったと書きましたが、

それ以外にも、例えば株式投資とか、いろいろ父がやめたがらない事があり

それをなんとか諦めさせるのに苦労しました。

(株は説得に説得を重ねて、ついに全部売却しました。

 今となっては、あの時に売っておいてよかった。

 父の死後、株を残されても株に何の興味もない私たちは困ったと思うので。)


パソコンもだんだん使えなくなり、「前にできていた事ができなくなった」

「やり方を忘れた」などと言うようになったので、情報管理の面が心配で

Wi-Fiを切りました。(ネットにつながらなくした)


その代わり、父が好きだった数独やクロスワードパズルが載った本を送ったり

オフラインでも使える麻雀などが入ったゲームソフトをパソコンに

インストールしてあげたりしましたが、あんまり使わなかったみたいです。

楽しみはテレビで野球や相撲を観るくらいしかなくなっていました。


一方の母は、足腰が弱った父を見ていて危機感を感じていて、

カーブスに長年通っていましたが、そのカーブスがちょっと遠くて

毎回バスで通うのが身体的にも時間的にもきつくなったそう。

それで自分で地域包括センターに相談して、

介護認定がなくても通えるデイサービスを紹介してもらいました。


そこで軽い運動もできるし、人との交流もあり、

なにより送迎付きで助かる、と喜んで通うようになったので、

私も「よかったなぁ」と思っていたのですが・・・


母も年齢が90才近くなり、だんだんと歩くのが辛くなってきていました。

そして夏頃から食欲が落ちてきて、ほとんど何も食べられなくなりました。

母は「夏バテかな」とか父が施設に入ってホッとして「今頃疲れが出てきた」

とか言っていましたが、それだけではなかったのでした。