2026/03/23

父のパソコン使用状況-回想-

なんとか施設に入居することができた父。

父の施設入居の条件が、自分のノートパソコンを持っていけること、でした。

ケアマネさんからは「パソコン持込可の施設は少ない」と言われたけど

実際にはそうでもなかったみたいな。

(調べた施設の数がごくわずかなので、何とも言えないけど。)


父が入ったサ高住は個室だし、持ち込めるものの制限は緩かったです。

電気湯沸かしポットなんかも持ち込めたし。

それでパソコンもOKだったのですが、Wi-Fiはありませんでした。


なので、回線工事不要の置き型ルーターをレンタルして、

Wi-Fiの契約を「私が」しました。月々の利用料も「私が」払いました。


ともかく無事にパソコン使用の環境ができたので、

施設に行ってからも父は自分でネットバンキングをやっていました。

施設の利用料の口座引き落としなども管理していました。

そして、なんと施設に行ってからも株を買っていました(怒)

2026/03/22

父、ついに施設へー回想-

母の入院から父の施設入居まではジェットコースターのような日々。 


父が入った施設は情報がいっさい外に出ておらず、

ネットで検索しても全くヒットしませんでした。

おそらく、部屋数も少ないので大ぴっらには入居者募集をしておらず、

ケアマネさんなどを通じて口コミのみで部屋を埋めているようでした。


ありがたいことに、父のケアマネさんは優秀で顔も広い方で

施設の管理者の方につないでもらえました。

部屋がちょうど空いたタイミングでもあり、ラッキーでした。


いわゆるサ高住(サービス付き高齢者住宅)で、

要支援2の父でも入れる施設。病院が運営元でした。

トイレと洗面台とクローゼットが付いた個室で、

ベッドは備え付けのものがあったけど、テレビやテーブルなどは

自前のものを持ち込まないといけないので、ちょっとした引っ越し。


バタバタと運送屋さんの手配をし、

掃除用具などを買いそろえ(掃除はヘルパーさんがやってくれる)

なんとか引っ越しを済ませて、私は自宅に戻りました。


一方で母は心筋梗塞の後遺症は何もなくて、退院後は普段の生活に戻れました。

父が施設に入れることになり、母もホッとしていました。

それまで本当に気が休まらない日々だっただろうし、

外出できるのも父がデイサービスに行っている間だけでしたので。


母の入院・退院、父の施設決定、契約、入居(引っ越し)

全て一人でやりきりました。

他の兄弟には事後報告という形になってしまったけど、

とにかく即決しないといけない状況だったので仕方なかった。

2026/03/21

母の入院から父が施設行きを決心するまでー回想-

母の入院期間は、今回は半月ほどでした。

とは言え、その間ずっと実家に滞在するわけにもいかず

(私にも自分の病院の予約とかいろいろ用がありますし)

父にショートステイに行ってもらうなどしながら

実家と自宅を行ったり来たりしました。


母の入院中に父の定期健診の予約が入っていて、

ほとんど歩けない父をタクシーでC総合病院まで連れていったりしました。

その頃は父はシルバーカーという「手押し車」のようなものを使っていましたが

ちょっとしたことでよろけて転倒するので、気が気じゃなかったです。

いつも病院へは母が付き添っていたのだけど、高齢の母にとっては

それも重労働だったろうし、精神的なプレッシャーもあったと思います。


母が入院したD総合病院のソーシャルワーカーさんや

父のケアマネージャーさんから

「お母様はもう限界です。お父様に施設に行ってもらいましょう」

と言われました。


それまで施設に行くことに抵抗を示していた父も、さすがに観念したようでした。

それに、自分はどんどん不自由なことが増えていくのに、

母は思うように自分の世話をしてくれない、いっそ施設に行った方がよいかも、

と私に母への愚痴をこぼしたりしました。


ショートステイ先で至れり尽くせりのお世話を受けて、

そう感じたようにも見受けました。


理由はなんにせよ、やっと父が施設入所を前向きに考え出したので

この機を逃すな!とばかりに、ケアマネさんがいくつか施設を

ピックアップしてくれて、さっそく父と一緒に見学にも行きました。


その中で、小規模のサ高住でたまたまお部屋が空いたばかりなので

「今ならすぐ入居できます」と言われたところに入ることを決めました。

2026/03/17

母、またもや緊急入院ー回想ー

2023年に体調を壊して1カ月も入院した母でした。

その後は元どおりの生活に戻り、母自身は買い物やカーブスにも

特に不自由なく出掛けていました。

私はだいたい3カ月に一度のペースで帰省して、

家の中の片付けなどを手伝っていました。


でも2024年の初冬にまた母が入院。今度は心筋梗塞でした。


自宅にいた私に突然の電話。両親のかかりつけのA内科からでした。

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 ※実家の近くの両親のかかりつけ医:A内科

 ※母が最初に入院した中規模の病院:B病院

 ※父が過去に心臓の手術を受けていた総合病院:C総合病院

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「お母さまが心筋梗塞を起こしているので、これから救急車で

 D総合病院に搬送します!」⇒D総合病院に入院

私は急遽、飛行機のチケットを手配して、当日の夜遅くに実家到着。


後で聞いたところによると、数日前から「胸が痛かった」らしいのだけど

母は(というより高齢者ゆえか)毎度、自分の体調に鈍感で、

ギリギリまで病院に行かず、結果的にいつも大騒動になる。


A内科へは定期的な診察の予約が入っていたから朝から行って

「胸が痛いんですが」と話して検査をして、「これは大変!」となったそう。


D総合病院に到着した時は一瞬心臓が止まったそうで、

心臓マッサージだか電気ショックだか知らないけど

蘇生術をやってなんとか意識を取り戻したようです。

「危なかったです」とD総合病院の主治医から言われました。


前年の入院時も「おかしい」と思った時点で病院で検査をしていれば

1カ月も入院しなくても、いや入院などしなくてもすんだかもしれないのに。

母は決して病院嫌いというわけでもないのだけど、

どうも「たいしたことない」と安易に考えてしまうクセがあるらしい。

上にも書いたように、高齢者は全てにおいて鈍感になるので、

実際、本人的にはたいして苦しさを感じなかったのかもしれませんが。


とりあえず間一髪のところで救急搬送されて、なんとか助かりました。

診断は心筋梗塞ということだったけど、後遺症もなく、

その後は順調に回復しました。


ただし母の入院中は父が実家に一人残されることになったので

またもや私は自宅に戻ることができず、実家に滞在することになりました。

もうこの時は「すぐに戻れない」との覚悟もあったので、

準備もちゃんとして行ったけど、ほんとにほんとに頭の痛いことでした。

2026/03/16

なぜ両親はずっと二人暮らしだったのかー回想ー

ところで、夫婦二人では生活が立ち行かなくなりつつある両親を

なぜいつまでもそのままにしておいたのか?という話。


弟は定年までまだ数年あり、今ここで仕事を辞めるという選択は

彼の中にはありませんでした。

また仕事の内容からいっても地元に帰っての転職は難しかった。


妹は受験期の子どもを抱えていました。

妹の夫もまた定年前で簡単に転職して九州へ、とは考えられませんでした。


私は・・・

実はもう何年も前に、母に「将来のことなど考えているのか?」

「(弟と)何か話をしているのか?」と聞いたことがあります。

その時点でなら、私と夫(夫も九州出身)が九州に帰る選択肢が

全くないわけでもなかったので。


でも母はなぜか怒り出し「自分たちのことは自分たちでどうにかする!」と。

「余計なお世話」と言わんばかりで、とりつく島もなし。

なんで私が怒られないといけないのか?でもまあ母はそんな人でした。

なので、私が若い頃は帰省のたびに母とケンカしていました。


正直、その時から私は両親のことは「もう知らん」と思っていました。

ここ数年、いつもいきなり呼びつけられ、理不尽な思いをしながら

でもすぐに帰れるのが私しかいないから、仕方なく帰っていたのです。


そもそも「地元」と言っているけど、父が転勤族だったので、

両親が最後に住んでいた土地に私たち兄弟は何のなじみもありません。

友達もいません。自分たちの「地元」ではないんです。

だからこそ、弟は定年後ですら両親の元に帰る気持ちはなかったかも。


子ども3人とも、遠い関東に進学や就職をさせて、

そこで3人の子どもはそれぞれ伴侶を得て、長く暮らしてきた。

父は弟に定年後に帰ってきて欲しかったようだけど、

はっきりとそういう話をするでもなく、

そもそも弟の定年までまだ何年かあったにも関わらず、

それを待つ前に自分たちはどんどん衰えていった。

なのに自分たちの行く末を考えず、何の準備もしてこなかった両親に

呆れるばかりで、ため息しか出ない私でした。

2026/03/15

施設入居の話はいったん立ち消えー回想ー

一時は父の施設入居を兄弟たちで真剣に検討しましたが、

当の本人が「施設に行くのはまだ先でいい」という気持ちに落ち着き、

母も一カ月の入院で、退院後はだいぶ体力が回復したので、

父の施設行きの緊急性が若干薄れました。

(決して緊急性がなくなったわけではない。)


時々、兄弟で日程をずらしながら帰省して、とりあえず様子見という感じ。

ただいずれは施設に行くことになるだろうから、

できるだけ早く身辺整理をするよう両親には言っていたけど、

本人たちは全く危機感がなくて、正直嫌気がさすほどでした。


また、父はますます足腰が弱り、家の中でも転倒を繰り返していました。

転倒だけでなく、座っていた椅子からずり落ちたりとか。

尻もちをついたり、倒れてしまったりすると、

父は自力では起き上がれず、また母が助け起こすこともできず

ケアマネさんに来てもらったり、一度は警察に電話して

お巡りさんに来てもらったこともあったそう。


父は寝たきりでもないし、食事や着替えなどは自分でできていたから、

「介護」というほどではなかったものの、

トイレの失敗は頻繁だったようだし、

(ゆっくりしか歩けないのでトイレが間に合わなかった)

とにかく、転倒が怖くて目が離せなかったそうで、

やはり母ひとりで父の面倒を見るのは無理がありました。


そして母がまた入院します。

2026/03/03

父の施設探しが難航した理由その2ー回想ー

第二の理由はずばり介護認定です。

前にも書いたように、父は要支援2でした。

心臓のペースメーカーを入れる手術をした後で、再度審査を受けたけど

やっぱり要支援2のままでした。

誰かの介助がなければ一人では生活ができないにも関わらずです。


聞くところによると、認知症が全く無い状態だと要介護にはなりにくいのだとか。

あと地域によっても、審査が厳しいところ甘いところがあるようです。

(施設の数が足りないとか、財政が厳しい自治体だったりすると

 審査が厳しくなるのか?)


で、要支援2だと、そもそも入れる施設が限られます。

要支援1や2、あるいは介護認定のない人も受け入れ可能という施設でも

順番待ちの優先度がやはり介護度の高い人からになるので、

要支援2だと後回しにされるようです。


そんなこんなで、現状で入居可能な施設がみつからないまま月日がたち、

母が退院してきて、またもとの二人暮らしに落ち着きました。

一時弱気になっていた父も「もうしばらくこのままで」と言うし

私たち子どももそれ以上、無理に父の施設行きを勧めることもできず

施設探しはいったん立ち消えとなってしまいました。

2026/03/02

父の施設探しが難航した理由その1ー回想ー

まず第一に、父には「今すぐ施設に行く」という気持ちがなかった。

というのも、足が弱り外出もままならなくなった父にとって、

趣味というか日々の楽しみが株とパソコンだけとなっていました。


株の取引きにはパソコンが絶対必要だし、パソコンで「数独」などの

ゲームも楽しんでいました。

ちなみに銀行口座の管理や振込などもネットバンキングでやっていました。

だから「パソコンが持ち込める」というのが施設探しの絶対条件でした。


ところが、その時点でパソコンが持ち込めて、且つWi-Fiが使える施設

というのがまだあまりなかったのです。

施設によっては貴重品の持込が禁止で、パソコンも貴重品扱いだったりもしたし。

そもそも父の年齢でパソコンを扱えるという老人が、あんまりいなくて

施設側にもそういう想定がまだなかったようでした。


というわけで、父にとっての施設入居の条件が「パソコン」だったのだけど

その条件がかなう施設が、私の実家周辺ではほとんどありませんでした。

2026/02/26

ちょっとだけ現在の話ーお雛様を寄付ー

すっかりブログを放置しておりました。

両親の死後の諸々の手続きや四十九日の法要で、

あいかわらず遠い実家と自宅を行き来しておりました。


現在は自宅にいます。

ここで突然ですが、断捨離ネタを。


以前、雛人形の処分に困っている話を書きました。

おひな様どうする?

その後、たまたまだけど区の公設?リサイクルショップで、

雛人形の寄付を受け付けていることを知りました。

季節ものなので、持ち込めるのは1月2月のみ。


去年のうちから「年が明けたらお雛様を寄付しにいこう」と構えていたけど

年末年始は両親の葬儀でそれどころではなくなっていました。

ようやく自宅に戻れて落ち着いたので、リサイクルショップに連絡して

ギリギリだったけど、雛人形を持っていくことができました。


ショップでは既に他の方から寄付されたお雛様が店頭に並んでいました。

どれも、親王飾り(男雛と女雛の二人だけ)で、

狭い店内に置けるものしか受け付けていないようでした。


うちの雛人形も親王飾りで、傷みも汚れもない良い状態だったので

無事に寄付を受け付けてもらえました。


実は娘が生まれてから数回しか、飾ってあげられなかった

我が家のお雛様。申し訳なかった。

次は大事にしてもらえるお宅に受け継がれていきますように。

2026/02/02

両親ふたりだけの生活は限界と思えたー回想ー

その前に今現在の話。

両親とも、自分のPCとスマホを持っていました。

90歳前後という年齢を考えると「すごいですね!」と周囲の人からは言われます。


電話での通話以外に連絡手段があるということで、大変助かったのは事実です。

特に入院中や施設に入ってから。

本人たちはスマホを常にベッドの枕元に置いていたから、

メールでやりとりすることができました(母とはLINEも)


しかし!両親が亡くなった今、それらの「デジタル遺産」の処理で

私はかなりの手間と時間をとられています。

それについては、また別の機会に。2年前の話のつづきに戻ります。

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両親はそれぞれ別々の病院に入院することになりました。

コロナ禍のなごりで面会の制限がまだあったとはいうものの

医師やソーシャルワーカーとの面談、栄養指導などなど

毎日のように病院に通って大変でした。

それでもなんとか二人とも退院にこぎつけたのですが・・・。


当時、父の介護認定は「要支援2」

※今、これを書きながら「要支援1だっけ?2だっけ?」と。

 早くも記憶がおぼろげになってる!

ですが、「要介護じゃないなんて何かの間違い?」というくらい

あちこち不自由になっていて、日常生活に支障が出ていました。


また父が気にしすぎなところもあったのか、やたらと病院に行きたがる。

眼科、耳鼻科、皮膚科。

歩行も困難な父を連れての外出はそれだけで付き添う方は疲労困憊なのに。


私も母の入院中、父の世話をしていて「こりゃ大変だ!」と思いました。

このまま夫婦二人の生活に戻ったら、母がまた過労で倒れてしまう。


ケアマネさんの勧めもあって、父の施設探しが始まりました。

でもこれが、難航するばかりで、話はちっとも進みませんでした。

2026/02/01

両親それぞれが入院という事態ー回想ー

母は腎盂炎でB病院に入院。一応、腎盂炎という病名はついたけど、

そもそもの原因は過労とストレスであったろうと思います。

なので弱った体力を取り戻すために退院までには時間がかかりました。


父はそれまで、家の中でも外でも転倒を繰り返していて、

しかも筋肉も弱っていて、一度転ぶと自力では起き上がれない。

また転んで顔面を打って流血騒ぎとなり、救急車で病院に運ばれたことも。


そんな父と暮らす母は四六時中、気を抜けず、

また父の通院の付き添いも大変で心労が重なっていたのでした。

またそんな状態なのに不摂生を改めようとしない父へのストレスも

溜まりに溜まっていました。


母は入院することで、そんな気苦労からは解放されたのだけど、

問題は母の入院中、父をどうするか?

転倒を繰り返しているので、家に一人で置いておくのは危険。


というわけで私と妹が交代しながら、実家と自宅を行ったり来たりしました。

(飛行機か新幹線でないと行けない距離です)

私も妹もどうしても行けない時は、ショートステイを利用しました。

ケアマネさんがいろいろ手配して下さって、ありがたかったです。


そうこうしているうちに、父の心臓の具合がよくならないので

とうとうペースメーカーを入れることになり、

父はC総合病院で手術・入院となりました。


そしてその頃から、父の施設入居の話が上がり始めました。

2026/01/31

両親が一度に具合が悪くなりー回想ー

ここのBlogは、私の「ズボラながらも老活、終活を進めていこう」

という決意のもと、あれやこれやを書いていくものであったはず。

が、自分の終活の前にまず親の看取りという問題と向き合わざるをえなくなりました。


楽しい話ではなけれど、記憶が薄れる前に書き残すことにします。

愚痴やうっぷんもここに書いて晴らしたい。そして前を向きたい。

そんな気持ちで書いていきます。しばしお付き合いください。

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さて、今後、いろいろな医院、病院が出てきます。

なので略称を決めておきます。


実家の近くの両親のかかりつけ医:A内科

母が最初に入院した中規模の病院:B病院

父が過去に心臓の手術を受けていた総合病院:C総合病院


母はひどい炎症反応と脱水症状でB病院に入院⇒腎盂炎という診断。

一方、A内科で「不整脈がある」と言われた父を

心電図モニターを24時間装着した結果と紹介状を持って

C総合病院に連れていきました。


そこで言われたのは「ペースメーカーを入れた方がよいのではないか」。

でも父の決心がつかず(手術が怖い)、

ひとまず薬を変えて様子を見ようということになりました。


最初、父から「ちょっと(母の)様子を見に来てくれ」と言われ、

私自身も母は少し体調を崩しただけだろうくらいに思っていて

数日で自宅に戻るつもりでいました。


なのに母は1カ月入院、父も心臓の具合が悪いとなって

帰るに帰れなくなりました。

A内科で「C総合病院に予約を入れるから、いつがいい?」と聞かれ

「あの、私は一度東京に帰りたいんだけど」と言ったら

医師から「えっ!帰るのっ?」と強い口調で言われたことは忘れられない。


私だって自分の家庭がある(夫と二人だけど)。

私だって持病の薬を取りに帰りたい。

そもそも家をそんなに長く空けるつもりで実家に来てない。

なんてことを医師に言っても仕方ないので、のみ込んだけど。


妹が私と交代で実家に来てくれることになったものの、

妹は妹で都合があり、すぐには来られない。普通はそう。

でも両親は私なら"すぐに" "いつでも"来られると思っている。

その認識に後々苦しめられることになります。

2026/01/30

母、一度目の入院ー回想ー

正確に言うと、母はそれまでも二度ほど入院しています。

ただ、私の「失われた2年半」の間にも母は三度入院していて、

その中の1回目という意味。


父からのSOSで私が実家に駆け付けたのは日曜でした。

翌日の月曜にかかりつけの近所の医院に予約が入っているというので

母と父の二人を連れて行きました。


そこで検査の結果を見た医師から

「お母さまが大変なことになっています!」と言われ、

すぐさま入院設備のある別の病院に移動することに。

そして、なんと父も不整脈があるといわれてしまいました。


母の入院準備や、父の大きな総合病院への紹介状の受け取り、

などなど私は走り回って大変でした。

いや「大変でした」なんて一言ですむような話じゃなかった。

今も思い出したくもない。でもその時は必死でした。


私が実家に着いた日に、食欲がないという母のベッドにお粥や果物を私が運んだことも、

かかりつけ医から入院する病院へタクシーで移動したことも、

そこで母が改めて検査を受けている間に私が家に戻って

入院のための荷物を持ってきたことも、

母はなーんにも覚えていませんでした。後で聞いても何一つ思い出せなかった。

どんだけ弱っていたのか。(ちなみに母に認知症はなかったです。)


母の入院後しばらくたってから(いろいろ検査してから)、

病名は「腎盂炎」と告げられました。

とにかく体力も落ちているので、退院まで長くかかるだろうと

入院当初から言われていて、実際に1カ月も入院することになりました。


父は父で、心臓がおかしなことになっていて、

一気に何が起こったのかわからないくらいの混乱だったけど

私は変に冷静だったなーと、今になって思いますね。

私が一人で奮闘するしかない状況でしたし、おろおろしてる場合じゃなかったので。

2026/01/29

2年半前の父からのSOSの顛末ー回想ー

母も父も亡くなってしまった今、

私はある意味、穏やかな気持ちで過ごしています。

というのも、もう病院や施設からの急な連絡は来ないから。

電話が鳴るたび「今度は何?!」とドキッとすることがないからです。


さて、昨日のblogの続きです。

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「ここ数日何も食べていないし2階から降りてもこない」

と母のことで父から電話があったのが夜の10時頃。

私は翌朝すぐに実家に向かうべく、チケットの手配に取り掛かり、

その間に妹(妹も実家から遠くに住んでいます)が

実家近くの警察に連絡してくれました。


事情を話して、お巡りさんに様子を見に行ってもらいました。

暑い時期だったので熱中症にでもなっているのではないかと心配したけど

お巡りさんからの連絡で、そこまで深刻な状態ではないとわかりました。


後からわかったのだけど、母は自分のスマホを1階に置いたまま

2階で寝ていたので、こちらからの連絡に無反応でした。

また母が言うには父へのある感情から、いわばストライキみたいな

つもりもあったらしい。

だから父の食事の支度もせず、自分は食欲がないしで、

1階に降りることもなく2階で寝ていたと(トイレは2階にもあり)。


そう聞くと、なんとも人騒がせな話ですが、

でもでも事情はちょっと違います。

というのも、この日のことを母は後で何も思い出せなかった。

なんと家にお巡りさんが来たことも何も覚えてなかったのです。


あとからいろいろ言い訳してたけど、

実際には母はかなり具合が悪い状態だったのです。


ともかく、父がこの第一報を私にしたことで、

この後の全てを弟でも妹でもなく私が主導することになってしまったのでした。

2026/01/28

始りは2年半前ー回想ー

2023年の夏、突然、実家の父から電話。

母が具合が悪く2階の寝室で寝ていて、全然降りてこない。

「ちょっと様子を見に来てくれ」という電話でした。


父はその頃、もう2階への階段を上がれないくらい

足が弱っていました。

自分で2階にいる母の様子を見に行けないから、

私に来てくれ、という話でした。


私は東京に住んでいます。

実家は九州です。


「は?」という感じですよね。

この話をすると、誰もがびっくりします。


これが、私の親に振り回される2年半、

私にとっては「失われた2年半」の始りでした。

(つづく)

2026/01/27

父も亡くなりました

母のちょうど1カ月後に、父も亡くなりました。老衰でした。


施設にいた父は、介護タクシーで葬儀場まで来て、母の葬儀に参列しました。

その後、風邪の症状があったらしいのだけど、

食事が摂れなくなり、どんどん弱って、そのまま亡くなりました。


母が亡くなったら、父もそう長くは生きていないだろうとは思っていたけど

まさか1カ月で亡くなるとは予想していませんでした。


いろんなことがまだ片付いていないし

バタバタしていて記憶がどんどん消えていく。恐ろしいくらい。